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気がつくとタイ映画の秋だった2015②:第28回東京国際映画祭上映タイ映画『孤島の葬列』雑感

福冨です。
一つ前の記事で、第28回東京国際映画祭で上映されたタイ映画『スナップ』について書きました。
こちらの記事では同じく東京国際映画祭で上映され、「アジアの未来」部門で作品賞を受賞した、ピムパカー・トーウィラ(Pimpaka Towira)監督の『孤島の葬列(The Island Funeral)』について簡単に感想を記しておきます。こちらも『スナップ』と同様、福冨のツイッター(sh0f)に書いたもののまとめになります。

以下『孤島の葬列』の予告編とあらすじ、福冨による感想です。同じくネタバレがあるのでお気をつけください。

タイ南部のイスラム地域を旅するライラー。やがて彼女は眼前に姿をあらわした離島へと渡り、不思議な体験をする…。監督(『ワン・ナイト・ハズバンド』)、プロデューサー(『稲の歌』/TIFF14出品)、批評家など多才な顔を持つピムパカー・トーウィラの長編第2作。
ピムパカー・トーウィラ:タイの女性監督として、初めて世界で名を知られるようになる。そのきっかけとなったのが長編デビュー作『ワン・ナイト・ハズバンド』。これまでの全作品において、脚本、監督、製作を担っている。2009年、タイ文化省から現代アーティストに贈られるSilapathorn賞を受賞した。
東京国際映画祭Web「孤島の葬列」作品ページより引用)

感想:
予告編からも見える通り、バンコクから深南部パッタニー県に向かい、そこからさらに深く進んでいくロードムービーです。『スナップ』の翌日に見てしまったこともあり、政治的側面を切り離して見ることが難しかったです。個人的には2014年9月にパッタニー県の独立系書店を訪れるため、現地を訪れたことがあり、風景を懐かしく思うこともできました。

パッタニー市内から少し外れたところ。 2014年9月撮影。

パッタニー市内から少し外れたところ。
2014年9月撮影。

タイ深南部と呼ばれる、マレーシア国境近くの地域では、ムスリムであるマレー系住民が非常に多く生活しています。もともとはイスラームの国家であったパタニ王国という国があったところを、19世紀〜20世紀の境目に、タイ政府によって「タイ」として併合された場所が現在の深南部にあたります。そのため、特に第二次大戦後になって、中央政府に対する抵抗意識が反政府運動・分離独立運動として結実していったという背景があります。一度は沈静化した治安でしたが、21世紀にタクシン首相が政権の座につき、深南部に対して強権的な政治を執るようになると、再び悪化していきます。バンコクでも、深南部における爆弾テロや襲撃のニュースが目にされるようになったのです。
この映画はそんなバンコクの人々がもつ「南部の人々=ムスリム」への漠然とした恐怖がまず示される映画でした。車で南部に向かいながらも、現地での過激派のテロのニュースや、パッタニーで出会った見知らぬ男に怯え続ける非ムスリムのトーイ。その一方で、ムスリムである主人公の姉弟二人からそういう恐怖の感情が見えないので、バンコクの人間がもつ偏見にも似た恐怖がことさらに強調されます。

それでも旅を続ける三人は、クルーセ・モスク(マスジド・クルーセ)に辿り着きます。2004年4月、このモスクでタイ政府の治安部隊と現地ムスリム住民の衝突が起き、数十人が死亡します。そのため、映画のこのシーンにおいても、否が応でも暴力の記憶が喚起されます。けれどここで暴力を受けていた対象は、それまで加害者だとしてバンコクの人々から恐れられていたムスリムの人々なのです。けれどもその事実を全く知らないバンコクの人間の滑稽さ。ここで一度、南部における暴力が相対化され、バンコク/南部=被害者/加害者の区別が消えていきます。

クルーセ・モスク(マスジド・クルーセ)。 2014年9月撮影。

クルーセ・モスク(マスジド・クルーセ)。
2014年9月撮影。

さらに二度目の暴力の相対化が起きます。主人公ライラー達の乗る車のカーラジオから漏れ聞こえる、2010年に発生していたバンコクでの政治的混乱のニュース。セントラルワールドの焼失、赤服デモ隊の強制排除、赤服デモ隊幹部チャトゥポーンの出頭。ここでバンコクでの暴力が見え隠れすることで、バンコクー南部の分断すら相対化される。アフタートークでのピムパカー監督の言葉に、暴力はどこでも起こりうる、というものがありました。

たどり着いた島ではさらに、自らのルーツが中国にあることを知るライラー。中央/南部、タイ/マレー、仏教/ムスリム、などといった差異が、混淆に混淆を重ねることで意味を持たなくなります。そこに重なって映る死者の葬列と埋葬。そしてライラーと伯母のあいだの、あらゆる多様性が共存できるユートピアを探求するようなダイアログ。ただ個人的には、ここの会話があまりに説明くさくてちょっともったいないなあと感じてしまいました。けどこのシーンこそが「アジアの未来」で賞を獲った所以なのかなあ、とも考えています。

パッタニー県ヤリンの海。

パッタニー県ヤリンの海。
2014年9月撮影。

本当は政治性を切り離して、美しさを求めるロードムービーとして見たいとも思っていたのですが、劇中の細部を追ううちに、それも難しくなってきてしまいました。同じく死のモチーフを扱ったタイ南部へのロードムービー『帰り道(I carried you home)』などとはまったく違う景色の見える映画でした。

以上ネタバレ込みで、ピムパカー・トーウィラ監督『孤島の葬列』初見の感想でした。

けれども実はタイ映画の秋2015、まだ終わりません!
11/7(土)〜11/20(金)に開催される、映画配給会社ムヴィオラの15周年特集上映「はしっこでも世界。」ではアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『世紀の光』(11/7)と『ブンミおじさんの森』(11/14,17)が上映されます。詳細はこちら→http://moviola15th.tumblr.com/
さらに11/21(土)〜11/29(日)の第16回東京フィルメックスでは、ジャッカワーン・ニンタムロン(Jakrawal Nilthamrong)監督の『消失点(Vanishing Point)』が上映されます(11/23,25)。こちら、先日バンコクでの上映が終わったところで、なかなか話題になっていました。詳細はこちら→http://filmex.net/2015/program/competition/fc04

まだまだ楽しみは続きますね。寒さに気をつけて、タイ映画を楽しみましょう!

(福冨渉〔twitter〕)

気がつくとタイ映画の秋だった2015①:第28回東京国際映画祭上映タイ映画『スナップ』雑感

福冨です。
今年の秋はタイ関連イベントシーズンになっていますね。
Yellow Fangの日本ツアーもありましたが、今回はタイ映画の話、二本立てです。

10/22~10/31の期間で開催されていた第28回東京国際映画祭で、タイ映画が二本上映されていました。
一つはコンペティション部門で上映された、コンデート・ジャトゥランラッサミー(Kongdej Jaturanrasamee)監督の『スナップ(Snap)』。
もう一つは「アジアの未来」部門で上映された、ピムパカー・トーウィラ(Pimpaka Towira)監督の『孤島の葬列(The Island Funeral)』です。
どちらもこの映画祭での上映がワールド・プレミアということで、たくさんのお客さんがいらしてました。とても良い映画でしたね。
福冨のツイッター(sh0f)に書いたもののまとめですが、二本とも簡単に感想を記しておきます。
こちらの記事では『スナップ』のみで、『孤島の葬列』についてはこちらの記事をご覧ください。

以下『スナップ』の予告編とあらすじ、福冨による感想です。ネタバレがあるのでお気をつけください。

卒業して8年。ヒロインは母校で行われる同級生の結婚式に出席すべく故郷に帰る。そこにはカメラマンになった初恋の相手の姿も。ふたりで数えた池の魚。思い出のベンチ。上書きされてなかった恋の痛みに、婚約者がいながら動揺してしまう女性の姿を、スタイリッシュな画面で綴る美しい青春映画。
コンデート監督は新作の度に作風を変えて見る者を驚かせるが、今回はクーデター後の戒厳令の暗い現実と、美しい恋愛模様の甘酸っぱさが絶妙なコントラストをなす、奥行きの深い作品を完成させた。表向きは王道の青春映画でありつつ、社会、家族、個人、SNSといった、複数の次元の「現実」が多様に交差する現代を表現し、スタイリッシュな映像も含めてその演出は熟練の域に達している。ヒロイン役のワルントーンはガールズグループに所属したこともあるが、現在は大学生で、本作が映画デビュー。年末に歌手デビューも予定されている。相手役のトーニーはメルボルンで教育を受けた後、モデルや俳優として活動し、話題作への出演も相次いでいる期待の若手。
コンデート・ジャトゥランラッサミー:タイの大手映画会社で3本の長編を監督し、初めてのインディペンデント作品『P-047』を監督。同作は2011年のヴェネチア映画祭オリゾンティ部門で初上映された。『タン・ウォン 願掛けのダンス』(13/TIFF14出品)はベルリン国際映画祭で初上映され、タイ・アカデミー賞をはじめ、数々の国内映画賞を受賞した。最新作“So Be It”は2015年ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門で初上映された。
東京国際映画祭Web「スナップ」作品ページより引用)

感想:
あらすじを読んだ上で表面的に見ていると、何だか薄っぺらな青春恋愛映画に見えてしまうのですが、2014年の時間的・社会的文脈と一緒に見てみると、印象のガラッと変わる映画でした。

一つの出来事に対して異なる人々がもつ記憶・印象はそれぞれ異なり、それぞれが自らの記憶に基づいて自分なりの物語・歴史を再構成してしまいます。タイトルにもなっている「スナップ」はそれを撮影した人それぞれの記憶が具現化したものではないでしょうか。アフタートークのコンデート監督の言葉で、「Snapとは撮った瞬間に終わってしまうことも意味している」というものがありました。主人公プンはスナップを撮り、そこにキャプションを自ら書き加えることによって、自らの記憶・印象・感情を「そうであった事実」としてそこに記録し、書き換え、固定し続けています。
実は2014年のクーデター直後、実際にSNS上でまったく同じような状況が起きていました。2006年のクーデターから2014年のクーデターに至るまでの経緯・原因・バックグラウンドについて、さまざまな人がさまざまな意見を表明した数だけ新しい物語が生まれてしまい、それが現実の人間関係に少なからず影響を及ぼしていたのです。僕の周りでも、クーデター後に積極的に反クーデターの発言を繰り返していた友人が、少し経つと発言をパタリとやめて、Facebookのアカウントを閉じたり、フレンドリストを一斉に整理し始めるような状況が、一人でなく見られていました。聞いてみると「昔の友人とうまくいかなくなった」との理由。
単に政治的意見が食い違うから、というだけではなく、Aの意見をもつ=Aな人間、Bの意見=Bの人間、という風に、ひとりひとりの人格すら、たった一言や二言のレッテルで規定されるようになっていたのが2014年5月以降のタイの状況だった、とも言えるかもしれません。話はそれますが映画評論家filmsickことウィワット・ルートウィワットウォンサーがクーデター後わずか三ヶ月で発表した小説『2527年のひどく幸せなもう一日』は、まさにこういった状況をとても良く描いていました。

2014年軍事クーデター翌日、バンコク都内某所で撮影。

2014年軍事クーデター翌日、バンコク都内某所で撮影。

劇中に漂っている寂しさは単なるノスタルジーによるものではなく、同じ時間を過ごしたはずの人々が感じるノスタルジーすら、実は共有できていないということかもしれません。その始まりは序盤、クイティアオ屋での友人同士の会話の中に見られます。友人ラン(ルン?)と、そこにはいない別の友人ノップの仲違いの話。ノップが俺のことをサリム(=黄服を揶揄する言葉)って言いやがったというランの怒りは、2014年のPDRCのデモからクーデターに至るまでの、人々の感情にまつわる空気感を一番具体的に、はっきり示しているシーンでした。この大きなすれ違いをきっかけに、他のすれ違いが色々と浮かび上がってきたように思います。
まずはもう一人の主人公ボーイとノップの記憶のすれ違い。男友達みんなで旅行に行っただろうと言うボーイと、その記憶がすっぽり抜け落ちているというノップ。「お前らがそう言うから、行ったような気になってくる」とノップが言うのも、記憶と印象の書き換えの一種。その後ボーイが記念写真を見せてくれることで、その旅行は事実だったことが確認されます。
さらにマンとプンの馴れ初めにまつわるすれ違い。マンがプンを口説くのに使った言葉「君の払った罰金を、一生かけて払わせてくれ」=甘い物語の記憶のエピソード。けれども一方のマンはそんなこと言っていないぞ、と主張します(四分の一笑いくらいの表情ではありましたが)。こちらは結局事実なのかどうか確認されません。
そしてプンとボーイが高校時代、一緒に育てていたという魚に関するすれ違い。ボーイはその魚には長くて青い尾が生えていたと言い、一方のプンはトカゲ(トゥッケー)に顔が似ていたと言う。忍び込んだ深夜の水族館でこれだ!と見つけた魚は、寿命四〜五年の魚であるにも関わらず、プンは八年前に育てていた魚がそこにいると主張します。ボーイは確かに魚の顔がトカゲに似ていると認めます。
しかしながら、この映画唯一のフラッシュバックのシーンにおいて、現在の二人が見つけた魚と、当時育てていた魚がそもそも違う種類の魚であったことが示されます。逆説的ではありますが、互いが互いに作り出した物語が、もともとあった事実にとって変わって、新しい事実になる瞬間です。

まったく煮え切らない主人公ボーイの悲しさは、そのすれ違いをどこかで理解しながら、それに正面から向き合って、擦り合わせることができないことなのでしょう。高校時代の別れの日、プンの写真を撮るからと送ってもらった父の身に起きた事故に責任を感じ後悔するボーイですが、その後何年間も、自らの後悔を父のもつ感情と擦り合わせられないまま、父は逝ってしまいます。だから彼は父の後ろ姿の写真しか撮れないままなのかもしれません。プンが相手の場合もそれは変わらないでしょう。
プンは自らの作り出した物語を事実として信じ、そこに郷愁を覚え涙するほどです。ある種それほどまで決然としてしまったプンに、ボーイは正面から向き合うことができなません。だからボーイはプンの後ろ姿を追い続けることしかできないし、プンの目の前の風景からはボーイが消えて、影だけになってしまいます。
現実に自分の目の前にいる生身の人間よりも、スナップに記録された記憶=書き直された物語・歴史のほうが、「事実」としてより正しいものとして認められる。2014年5月前後にタイにいたときの空気感をものすごく強く想起しました。
劇中で音楽が人と人を繋いでおくのに有効に働くのは、それぞれの曲に対する印象は異なっていようとも、曲そのものは曲そのものとして変わらないからではないでしょうか。同じ時間を本当に共有したのか?この郷愁は偽物なのか?という疑問の中で、曲はむしろ確かなものとして響きます。
その意味で二人が再会する屋上のシーンは示唆的です。プンは、二人の思い出の曲であるヤリンダ・ブンナーク曲名を「スカイライン」だったと勘違いし、それをボーイに指摘されます。けれどもプンはその曲名が何であったのか「どうでもいい」と言ってしまう。プンは自分で切り取ったスナップ=記憶のほうを選んだことになり、実はこの時点からボーイとプンの断絶は決定的だったのかもしれません。

2014年のクーデター前後は、SNS上で数えきれないほどのデマが流れる時期でした。けれどもそこには、「いいね!」が一つしかつかない事実よりも、「いいね!」が100つくデマのほうが「真実」だとされる空気があったのです。プンが写真をインスタグラムにアップして、いいねの数があっという間に増えていくのはある種、とても皮肉ですね。

以上がコンデート・ジャトゥランラッサミー監督『スナップ』初見の感想でした。クーデター後の状況に対して、割と明確に疑義を呈している作品だと思ったので、むしろタイで上映するときの反応が気になりますね。

なお劇中、登場人物たちよりも、むしろコンデート監督の世代ストライクなのでは?という曲がこれでもか、とばかりに流れます。
こちら、ラストに流れるプンとボーイの思い出の曲、ヤリンダ・ブンナークの「思うだけで(แค่ได้คิดถึง)」のMVです。
劇中は全体的にインディーズ感溢れていたのに、最後の最後にこんなGMMっぽさバリバリの曲…?と思っていたのですが、これもプンとボーイのすれ違いの虚しさを見せる上では結構効果的なのかもしれませんね。

もう一つの記事でピムパカー・トーウィラ監督『孤島の葬列』について簡単に書きます。

(福冨渉〔twitter〕)